『世界をちょっとでもよくしたい』は早稲田大学の学生が種々の社会の課題に奮闘する姿を描いている。その奮闘する姿を誇らしげに描くのではなく、彼らのボランティアを通じての気持ちの変化、葛藤に重点がおかれているように感じた。 この本からボランティアという活動の醍醐味は決して正義感や偽善に基づくものではないことを思い知らされた。一方で、この本を読んだだけではボランティアとは何かという問いに対しての答えははっきりしないままであろう。しかしボランティアというものが何かを考え始める導入部分としては役立つ本であろう。
重監房とは、群馬県草津の栗生楽泉園38〜47年まであり、その9年間に93名の患者が収容され、14名が監禁中に死亡、8名が衰弱して外に出され、まもなく死亡した、恐ろしい懲罰施設である。
そこに収監された人の証言は殆どなく、本書も著者とハンセン病を結びつけた元患者の谺さんの案内と、谺さんが編んだ『日本のアウシュビッツ』から収監者への食事運搬や死体の運び出しを行った患者などの目撃者の証言を引用している。
本書は何故そのような施設を作るに至ったのかを、外堀から考えている。
先ず、救いである宗教は、患者に対して本当に救いになってきたのだろうか。 法華経も旧約聖書も「良い行いをしなければあのようになってしまう」との因果応報の証拠として、ハンセン病患者を差別してきた。 キリスト教も、墓穴に入れ擬似的な埋葬を行った後、市街へと追放する「行きながらの死」を強い、患者を分離した。
キリスト教では、緊急医療行為に関して有名な「善きサマリア人の法」(窮地の人を救うために無償で善意の行動をとった場合、良識的かつ誠実にその人ができることをしたのなら、たとえ失敗してもその結果につき責任を問われないという趣旨の法)があるように、イエスに寛解して貰った10人の内で、足下にひれ伏した一人はサマリア人とされ、(善行を積めば)隣人に救われるとの救済の例えになっている。
しかし日本では、いずれにしても宗教は患者を救わず、戦前は国家政策と完全に連動し、入所者の尊厳が踏みにじられている事実自体に覆いをかぶせ、入所者に隔離の受容を説き伏せる意味で、究極の人権侵害を作為的に行い、戦後も慰安教化の活動のあり方は基本的には変わらなかった。
世界の歴史からも見る。 ハワイイの国王カメハメハ5世によるモロカイ島カラウパパ半島への棄民と、患者を救済しながら同化し、同じ病に倒れたとされるベルギー人のダミアン神父。
アボリジニーとの接触を避けるため南緯20°以南への先住民の移動を禁じたオーストラリア。
ネルソン=マンデラが18年間にわたって収容された監獄の島ロベン島へ、反体制派の政治犯・様々な犯罪者・精神障がい者と一緒に患者を隔離した南ア。
米ルイジアナ州で、1941年に初めてプロミンが特効薬として効果を出し、「カーヴィルの奇蹟」と今も言われる療養所。
医学的には、 1897年の第1回国際らい会議において、これまで遺伝病と思われていたものが感染症と承認され、ノルウェーで行われていた限定的な隔離政策が医学的に正しい対策とされ、患者の自己決定権を尊重したものから強制へと変わっていく。
そして日本では、他国から群を抜いて強力に行われ、症状の軽重に関わらず例外なく隔離し、例え完治しても隔離を解かれず、プロミンなどが顕著な治療効果を上げるようになっても強力に行われ続けた、「生涯絶対隔離」を行ってきた。
その中身は、労働・断種・懲罰を核心とし、パターナリズムを根っこに持つ、世界で歴史的にも唯一これらを公的な制度として実現したものであった。
本書は、これをどう光田健輔・長島愛生園園長や第1線級の医師らが、形作っていったかも言及している。
懲罰や暴力としての断種については、次の通り。
患者作業を無断で休んだ人、日本式の神社の参拝を拒んだ人、命令に従わなかった人などが、理由も説明されぬまま断種された。 帝王切開で妊娠7ヶ月の嬰児を取り出し、その場で口をガーゼで覆い、手足をバタバタさせてもがき苦しませながら殺した。
このようなことは全国の療養所で日常的に行われ、特に戦後は手術技術の進歩で女性の断種が激増し、49−96年に行われた優生手術は1400件以上、人工妊娠中絶は3000件以上に上った。
そんな中、重監房は、ハンセン病患者でありながら犯罪を犯した者が罪を免れ刑務所でなく療養所に送られ、多くの善良な患者が苦痛や迷惑を被る困難を解決するべく、患者懲罰検束規定を拡大解釈して作られた。
しかしそれは、権力を持つ者がいたずらに人々を罰する事を認めることとなり、私刑とかわりない。 40年の熊本市本妙寺集落で、自分たちの手で療養所を設立し、自由に生活環境を整えようとして計画した患者たちを、熊本県警の総勢220名が、寝込みの本妙寺集落を一斉に強襲して検挙を行い、合計157名(未感染児童28名を含む。)もの人々を次々にトラックで九州療養所の留置監禁室に、犯罪者として収容した事件でも明らかだ。
また患者自身も待遇の改善を求めて、施設当局の立場に立っているとは言え患者代表機関だった、五日会の役員選挙を通じて同志を送り込み、特別病室をぶち壊し、囚人を救い出した上で、火をつけてしまう「破壊焼き討ち隊」と、駆けつける警察に患者側の実情を説明する「陳情隊」によって武装隆起を行う計画を立てた。 1942年の特別病室ぶち壊し計画、「昭和17年事件」である。
しかし実際に破壊道具をそろえ、焚きつけを用意して所定の場所へ集まり、合図を待っていたが、計画は園当局に筒抜けになっており、決行寸前で中止となった。 それでも園当局にとってこの事件は、患者の隆起を震撼させるに充分であり、事件に係わった者も厳罰でなく、口頭注意で済まされた。
その後、47年の施設との直接交渉である「22年闘争」を経て、重監房は廃止され、53年取り壊されたが、ここであった出来事の責任を問われた者はいないし、政府は当初,共産党が引き起こした労働争議のようなものだと認識しており、47年の第1回国会の厚生委員会で社会党が触れた程度で、医療従事者が患者を罰するという懲戒検束規定そのものの異常さには誰も気付くことなく、殆ど追求もされなかった。
著者は谺さんの願いもあって、重監房の復元を求める運動を、著者とハンセン病を結びつけた元患者の谺さんと共に起こし、10万人7101人の署名を集め厚労省に手渡すが、今に至るもそれはなされていない。
今も残るアウシュビッツの施設は、私たちの想像力を超える感情を沸き立たせ、収容された患者が感じたであろう感覚の一端を少しは理解できるかもしれないものである。 それと共に記憶を消させない闘いは続く。
それに関連するミラン=クンデラの言葉を残す。 「記憶し続けること、憶えているということが、弱い民衆の武器である」庶民の最大の武器は忘れないこと
水俣をはじめとする公害病も然りだが、ハンセン病も終わった出来事ではない。 読者には、新潟大学の宮坂道夫研究室のHPもご覧戴きたい。
私は、ハンセン病の問題は、マザーテレサの伝記を読んだのがきっかけでずっと関心がありました。でも、明確にいろいろな本を読むようになったのは、平成13年の熊本ハンセン病裁判判決のときからです。
この本は、昭和50年代のらい者からの聞き取りを中心にしています。本当に、様々な不幸の形があります。
隔離政策は、今は全く悪であるとわかりますが、決定された当時は善意から起こったものでした。社会かららい病を隔離し、生計が成り立たなかったり、家族で差別・迫害を受けているらい病患者を引き受けて治療することで、家族、地域、国家をらいから守り、平穏を実現するという考えでした。
ここにも、正義が、人を押しつぶす構図があります。
病の悲惨と、権力の暴戻と。
今は、らいという言葉自体が避けられて使われていません。四国巡礼のお遍路やお伊勢参りなど、宗教的な慣習にらいが関わっていたことも忘れられつつあります。多くのらい者がものしたたくさんの文学も、遠い時代のものになっています。そして、隔離を受けた患者たちが亡くなりつつある今、隔離政策の光景は失われつつあります。でも、きっと忘れるべきではない歴史です。
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