入手困難で、品薄で一度は中問がキャンセルされた程です。そんなこんなで1月半ほどやっとの事で届きました。
まず、MacBook AirのACアダプタにぴったりのサイズ。色も紅白になっていいですね。オリジナルよりも若干サイズアップとなりますが、元々持っていたACアダプタ充電器がいらなくなるのでスマート&スリム。いいですね。ACアダプタのクチが一つしかないところでも、MacとUSB機器に給電可能で、もちろんですがMacをシャットダウンしても給電してくれます。
容量も2Aあるので、複数の機器も大丈夫。2口あれば最高なんですが、とりあえずUSBハブ持っているのでそれで電源を分けて充電しています。いずれにしてもいいです!
本書はもちろん『マルクスの亡霊たち』(1993)とそれに対する何人かの論者たちの批評に対するデリダの応答である。その意味では、前提となるテクストを読んでいないとわかりにくいかもしれない。私は『マルクスの亡霊たち』を読むウォーミング・アップのつもりで読んだのだが、訳者国分功一郎氏のわかりやすい訳文といきとどいた解説のおかげで、それなりに理解することができた。
本書で問題になっていることのひとつはマルクスからの「遺産相続」の問題である。マルクスないしマルクス主義から現在引き継ぐべきものはなにか、誰が正当な相続人たりえているか、こうした関心がマルクス主義者たちを意識的/無意識的に支配しているのだが、デリダはまずこの点を批判している。デリダは例えば「社会階級」のような概念をとりあげ、それが決して自己同一的な究極の支持体ではありえないと論じ──ただし階級を単純に否定しているわけではない──、硬直化したマルクス(主義)思想の捉えなおしを提案する。「そのような価値測定作業には、定義上、あらかじめ存在する基準などはないし、絶対的な計算可能性もないのであって、分析は、毎日、各場所ごとに再開されねばならず、あらかじめ存在する知によって保証されるということは絶対にありえない」(p. 68-69)。ここからデリダは「決定不可能なもの」こそが決定が行われる条件だと論じる。
こうしたスタンスはマルクス主義者たちをいらだたせる。そこには革命にむけた現実的運動を組織する視点が見出されないからだ。そのためデリダは「改良主義者」と呼ばれたりしている。しかし、これに対するデリダの答えははっきりしている。それは「メシアニズムなきメシア性」であり「期待なき待つこと」である。それは現実の流れを中断するような契機であり、「メシア」なる言葉が参照されているが、歴史上のいかなるメシアニズムにも影響されることなく、むしろそうした未来への信仰を可能にする「普遍的な構造」なのだと言う(デリダはそれがユートピア主義でもないと念を押している(p. 88-89))。「つまり、それは、能動的な準備であり、一つの展望の奥にあるものを先取りすることではあるのだが、しかしまた、展望なきままにさらされること、そしてそれゆえ、欲望と不安、肯定と恐怖、約束と強迫の還元不可能な混合物でもあるのだ」(p. 90)。デリダはさらに、この「なき」にはいかなる否定性もなく、脱構築は肯定的なものだとつけ加えている(cf. 114)。
デリダがメシアという言葉を使うのは、彼が宗教や信仰について思考しようとしたためでもある。彼は存在論に対して「憑在論」hantologieを提唱するのだが、この亡霊をめぐる思考は、マルクスのイデオロギー論と交錯しながら、人間が決して形而上学的なもの、抽象的なもの、信仰、つまり亡霊から逃れられないことを示している(p. 80-81)。デリダは脱構築してイデオロギーを悪魔払いできるなどと単純に信じているわけではないのである。「いかなる宗教批判も、特定の各宗教に対するいかなる批判も、どんなにそれが必然的かつラディカルであろうと、信仰一般に打撃を与えるはずもないし、打撃を与えることはできないと私には思われる。〔……〕誓いの言葉(それは知の彼岸に、そしてあらゆる「事実確認的」可能性の彼岸にある)の中にある信念、信用、信仰という経験は、社会的なつながりないしは他者への関係一般の構造に、また、厳命と約束と行為遂行性──すなわち、あらゆる知、あらゆる政治構造、そしてとりわけあらゆる革命の中に含まれる厳命と約束と行為遂行性──に属している。科学的ないし政治的使命としての宗教批判そのものが、この「信仰」に訴えかけているのだ。それゆえ、私には、信仰への参照をことごとく消し去ることが可能であるとは思われなかった。」(p. 105-106) これは要するに、交換価値という物体を超えたサンボリックなものが、あるいは信用が、社会の基礎的の構造にほかならず、そのことと宗教は不可避的に混交しているということである。
結局、この信用の構造から外部に出られない以上、革命や来るべき民主主義といったものは、つねに到来すべきものにとどまる。まさに「期待なき待つこと」なのだ。デリダはその宙づり状態にとどまることを選択している。ただし、彼が憑在論によって存在論(自己同一的な観念や実体に依拠する議論)を批判するとき、私としてはむしろ、存在論そのものに憑在論から生まれてくるような契機があるのではないか、存在論そのものがひとつのイデオロギーとして不可避的に生じるものではないかという気がしないでもない。たとえば、マルクスの言う使用価値は、交換価値体系の中に消えてしまうのではなく、その中で不可避的に生じる幻影として根強く生き続けるのではないか。とするなら、憑在論によって存在論を批判するだけでは十分ではないのではないか。
車で使っていますが(アナログな)今までのは線が余って邪魔でしたがこれなら余ることなくスマートです。この手の商品は線が薄いので切れたりしないかと心配してますが使用2ヶ月経っても問題ありません。スマホケース(特にバンパー系)がぶ厚いとプラグが深く入らないのでご注意を!
|