玄侑宗久 グッズ

玄侑宗久 「いのち」のままに: 心の自由をとりもどす禅的瞑想法 (一般書)

『心は変幻自在で危険なもの』と捉えるところから始まります。人の心は「地獄」「餓鬼」「畜生」「修羅」「人間」「天」のどれにでもなりうる、と捉える仏教の視点です。『心そのものを相手にするな』と禅ではいうそうです。『体こそ心の器』と解き、ことばに依らないで体にアプローチする意味がよくわかります。考えて考えて大脳皮質を疲弊させて、心の統制がきかなくなる前にこの本を!「心」そのものを相手にして、心理的アプローチで心を理解したつもりが、妙な心理的屈折を身につけてしまった方にもお勧めです。多くの人の苦しみや、大勢の死に向き合っている玄侑僧侶が、一般の私達に分かりやすく導いてくださる『瞑想の本』です。「いのち」がいきいきとしてきます。 「いのち」のままに: 心の自由をとりもどす禅的瞑想法 (一般書) 関連情報

玄侑宗久 現代語訳 般若心経 (ちくま新書 (615))

般若心経の現代日本語訳には、何しろ中村元訳(岩波文庫)というgolden standardが存在するので、誰が書いてもそれと比較せざるを得ない。中村本が現代語訳とはいえ、1950年代に書かれたものであり、またその趣旨が「漢訳を通さず、原典であるサンスクリット版から直接正確にその意味を現代日本語に移す」というものであったのに対し、本書は書かれたのが最近で、中村訳より日本語自体がはるかに新しい。現代の読者になんとかわかりやすく経典の内容を伝えようというのが趣旨である。だからこの本を読んで理解できることは、結局のところ中村元の直訳を超えるものでは無い。中村本を、膨大な解説部分を含め、人生の折に触れ何度も何度も読めば、誰でも概ね本書に近い解釈に達するであろう。ただそれは相当の、そして多年の努力を要する。従って、これくらいわかりやすく解説してくれる本があってもよかろう。ただ惜しむらくは本書はあくまで玄奘等が訳した漢訳本に基づく解釈である。鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)はともかく、玄奘訳はそもそも比較的原典(サンスクリット本)に正確な訳であるとされるが、やはりどうしてもサンスクリット語から漢語に、それをまた日本語にと重訳していく過程で変化し、失われる内容が無いとは考えられない。本書を読んで何となくこの経典が分かったような気になった人には、改めて中村元の直訳を読まれることをお勧めする。ともあれ、現代人に対する般若心経の導入本として本書は適切な一冊であると言えよう。気になったところもある。その中で一つ挙げるならば「痛みはそれ自体苦なのでは無く、「私」という主体がそれを病と認識し、苦と感じるから苦になるのだ」、と言う下りである。私は何度か大病をしたことがあり、その内少なくとも二度(腸管破裂と尿路結石)は激しい痛みを伴うものであったので、これは経験的に違うと言える。激しい痛みは、それが何かを考えるより前に、それ自体がまさに苦しみである。悶絶する苦痛であって「これは病気だろうか、なんだろうか」などと分析している暇はない。と言うことは、四諦の冒頭「苦諦」というのはまさに色に他ならない。つまり般若心経を真に会得すると言うことは、そのような痛みに七転八倒している最中にも「色即是空」と通暁することなのだ。具体的には内臓を内側から鷲掴みにされているような苦痛を味わいつつも「これはどうやら尿路結石であるらしい」と冷静に分析することなのだ。そうすると、「この痛みも永遠のものでは無く、それどころか石が落ちれば嘘のように消えるであろう」と言うことが分かって痛みはあっても苦痛としてはいくらか安らぐ。もっとも腸管破裂の時は「これは腸管が破裂したのだ」と分かっても少しも安心できなかったが、まあ人間いつかは死ぬものなので・・・。 現代語訳 般若心経 (ちくま新書 (615)) 関連情報

玄侑宗久 四雁川流景 (文春文庫)

架空の中小都市に住む様々な境遇の人々の小さなドラマを短編連作小説としてまとめている。僧侶でもある著者ならではの視覚で、誰しも避けられない死や離別、病気、ぼけなどのテーマを取り上げられている。各場面の描写は過剰すぎない程度に精妙さでリアリティーがあった。強く感じたのは、登場人物それぞれの抱えている問題や哀しみに対する作者の優しいまなざしである。解決の手立てはなく、どうしようもない問題なのだが、いい意味でのあきらめ、区切りが付いたという印象があって、各編に爽やかな読後感感じられた。テーマや視点の深さということでは、精神科医である箒木蓬生が特養老人ホームを描いた「安楽病棟」などの作品、あるいは同じ街に住む市井の人々を描いたという点ではジェームズ・ジョイスの「ダブリンの人々」を連想させる。いい本だと思う。 四雁川流景 (文春文庫) 関連情報




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