「たけくらべ」「やみ夜」「十三夜」「わかれ道」「うもれ木」の現代語訳版が収められています。「樋口一葉の作品は読みづらい」「途中で投げ出してしまった」などという人も多かったので、現代語で出されたのは良いことだと思う。「たけくらべ」のみ文体は全く変えずに現代語訳してあるので(訳者の作品に対する思い入れが強いためらしいが)、そこは賛否両論あるかもしれない。樋口一葉を読みたいと思っている人はまずこの現代語訳版を読んでから原文に当たることをお薦めしたい。日本を代表する作家です。
同じ山形県の神町を舞台にした前作『シンセミア』とのあまりの作風の違いに戸惑った読書も多かったのではないだろうか。かくいう私もその戸惑いを解消できないまま読了したのであった。しかし、そのあと読んだ著者と蓮實重彦の対談(『群像』所収)をヒントにして本書が書かれた意義を理解した次第。その要点をここにまとめておきたい。
・次々とよからぬことが起こる『シンセミア』の展開速度との違いを出すために、まず本作を「ゆるやかな時間の流れと語りの形式を一致させ」ることによって「徐々に様々な物語上の真実が浮かびあがってくる」ように構成した。この「ゆるやかな」展開にイライラした読者も多いはずだが、この意図的な読みの遅延はなかなかに戦略的である。
・『シンセミア』の世界を描くのに使われた攻撃的で硬い言葉遣いからの「転調として、とにかくやわらかで、どこかフワッとちょっと浮世離れしたような、幻想的なといいますか、ファンタジーの作品かと思わせるような」言葉遣いを意図的に採用した。そのために女性の登場人物を中心に置き、植物を作品全体のモチーフにすることは必然であったというわけだ。
阿部和重にとって『シンセミア』のような小説を書くことは得意とするところだろうが、「語りの問題、フィクション的な言説の形式の問題を何度も実践的に試みて」きたこの作家にとって同じような作品を再び書くということは考えられず、『ピストルズ』ではあえて異なる作風に挑戦してみたということだろう。小説家にとって「選択された形式がどこまで通用するのかという試みはきわめて重要」であるという蓮實重彦の言葉に私も同意する。
すでに着想を得ているらしい次作でのさらなる飛翔を期待したい。
映画学校を卒業した唯生は、百貨店の文化催事を取り仕切る劇場でアルバイ
トをしている。あるとき彼は、小説から自分の誕生日に特別な意味があるという
天啓を受ける。その日は9月23日の「秋分の日」、すなわち今から闇が光より長
くなっていく日であり、そんな「秋分の日」的存在である彼は、世界はまだ昼であ
ると民衆をだます「春分の日」的存在との対決を決意するのだったが…。
実社会と不協和を起こすこと確実なのがあらすじをちょっとなぞるだけでわかる男、
唯生についてのこの物語が、後に『グランドフィナーレ』で芥川賞を獲る阿部和重
のデビュー作であるが、のっけからして少々凝った技法的構成をとっている。
唯生を「私」目線から叙述するという、いちおう三人称と呼べる手法をとっている。
だが、読者の多くは徐々に語りの対象である唯生よりもむしろ、長々と蓮見文体
で語りつづける「私」の側に、興味がわいてくるのではないだろうか。そうしてると、
ある箇所で一つのネタバレ的なものがあり、あぁなるほどと読者の中の「私」につい
ての疑問は氷解する。
この話をややこしくしているのは、愛読する『ドン・キホーテ』が示すように、唯生は
自覚的に「気狂い」を演じているところだ。演じていることに自覚的ということならば、
実は狂ってないということになりそうだが、「気狂い」を演じようとしている時点でや
はり狂っていたという逆説を、この小説は披露する。
優越感の顕示と映画制作で目的が混同した映画学校卒業生たちや、外野の人間
にはさっぱりわからない作品や作家を記号的にやりとりするシネフィルたち。そうし
たくだらない存在は、経歴的にあまりにもダブる著者にとってもけっして縁遠い者で
はなかったはずだ。おそらくそれはこの小説が、作家阿部和重が少なくとも一度映
画と離別するために書き上げた小説だからなんじゃないか、と僕は勘ぐっている。い
わゆるこれも「私」小説なのだ、と。
渡部直己『不敬文学論序説』の文庫本にだけ付いている補説で、妙に評価が高いので文庫化を気に読んでみました。渡部氏は作中の田宮家と天皇家の系図的相関関係を元に、この本を「不敬」な天皇小説として評価しているらしい。なるほど、『ニッポニア・ニッポン』も書いていた。
たしかにここにはスガ秀実氏いうところの「偽史的想像力」たっぷりだし、戦後日本の権力のありさまが批判的に描かれてもいる。しかし強調されているのは、その『視覚』的な側面。「見る−見られる」という弁証法的関係に留まらず、監視、盗撮、幻覚、現実から目を逸らすこと、見たくないものが見えること、映像にだけ欲情すること、などなどといった「見ることの変奏」が奏でられている。それは、耳や鼻はともかく目だけは失いたくない、という拷問される者に象徴的に描かれるが、登場人物は全員、いわば『視覚』的な人間で、おどろくほど見ることにこだわっているのだ。
これは天皇制なんていう、もう抜け殻でしかないことよりもずっと重要な、「見ないという選択肢がない」という現代的な権力の問題だと思いますが、いかに?
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