この本は題名とカバーで、気のちっちゃな私などは書店の店員さんに出すのを躊躇してしまったほどだ。もうオトコの本能に直接ビンビンくるのである。 世に言う「処女崇拝」とも少し違う。女というウェットで現実な存在になる前の、純粋な「対象」としてだけの存在、ある意味男性の心の中でバーチャルにつくりあげたベールの中にだけ在る少女についての、作者の信仰告白とも読み取れる書である。もちろん世の殆どの男性が共感する「すこぶる健康的な」観念だと思われる。 ユートピア、鏡、アリス、コンプレックスの総目録など、興味は尽きない。
1984年に発売されたカセット・テープ『音版「唐組」紅テント劇中歌集』(構成・監修・唐十郎、唄・李麗仙ほか、プロデュース・小室等、パルコ出版)が、ようやくCDで復刻された。1967年(昭和42年)「ジョン・シルバー」から1981年「お化け煙突物語」までの主要曲が、製作時点での再録及びテレビ番組録音も含め上演年順に並んでいる。曲間には当時の舞台を振り返る唐十郎と嵐山光三郎のDJが入り、澁澤龍彦 、渡辺えり、扇田昭彦、村松友視、衛紀生、清川虹子、蜷川幸雄のライナーも復刻され、新たに唐十郎、安保由夫の書き下ろしが加わるという豪華版だ。
アルバム冒頭とラストの山下洋輔トリオの演奏と状況劇場男性コーラスによる「よいこらさあ」は、伝説の新宿ピットイン「ジョン・シルバー」初演時の音ではなく、17年後の再録のようだ。山下(ピアノ)、中村誠一(サックス)、ドラムスが豊住芳三郎から小山彰太に代わっているとはいえ、当時の状況(劇場も含めて)を髣髴とさせる。そうなのだ、この音やこの感覚が新宿を中心として展開し始めていたのだ。残念だがオイラこのピットインでの初演を見てはいない。上京すればピットインに立ち寄るようになったのは、その公演直後からなのだ。
この頃、相倉久人は「すべての既成芸術は急速にエネルギーを失いつつあり、次代をになうイデオロギーは、行動が思想を生み出していく」として、「状況劇場――若松プロ――ジャズというライン」を提示し、「それは、小劇場――アングラ――商業主義的ジャズに対するアンチ・テーゼである」と状況劇場の公演チラシに書いている。地方のハイティーンとしては、新宿で渦巻いている熱気そのものを「アングラ」と思っていたのだが。実際、三者のジャンルを超えた相互浸透は、絵画、音楽、小説などの他ジャンルを巻き込み、時代が変わっていくこと、また変わりつつあることを実感させていった。
さて劇中歌に戻ろう。当初は唐独自の詩に依ってはいるが、ほとんどが替え歌であった。当時、フォークの六文銭リーダー小室等が曲を担当することにより、オリジナルの劇中歌が生まれてゆき、劇中音楽のスタイルを形作っていく。そして状況劇場座付作曲家とも言うべき安保由夫により、魅力的な劇中歌とエンディングのカタルシスという、状況劇場ばかりでなくアングラ演劇独自の劇中音楽スタイルが確立することとなったのだ。以後多くの劇団がその音楽スタイルの影響下に演劇活動を展開した。現在、状況劇場の流れを汲む新宿梁山泊にもそのスタイルは継承されている。
この作品は主人公の成長が語られる、サド作品には数少ないもののひとつであり、はじめは情欲に導かれながら悪をなすだけだった未熟者が、やがて「哲学」をもとに悪をなすようになっていく過程が描かれている。ご多分に漏れず挿入される哲学談義は当時の思想を縦横に展開し、「剽窃作家」サドの側面とともに、サディスムの理論化という彼のアクロバットをも示すものだが、概して単調、煩雑である。 本書は抄訳とすることで、この問題をある程度解決している。また訳されている部分も的を得ており、真の悪の哲学者が生まれる過程を克明に追うことができるようにもなっている。主人公とともに悪の哲学者たちの教育を注意深く受ければ、俗化されたサディスムとはまったく異なるものが理解できるはずである。 日本の読者にとっては有効な翻訳ですが、澁澤節が嫌いな向きにはおすすめできません。
「さかしま」は渋沢龍彦が遺した訳業のなかでも、彼の実力、趣味嗜好や世界観がもっと
も幸福な結実をとげた傑作と申せましょう。言ってみればなんとも奇妙な小説ですが、物
語としての構造などにはお構いなく、ユイスマンスが想いのたけを存分に披瀝した特異
な文学作品だと思います。また十九世紀末フランスでしかこれはありえなかったでしょう。
第五章でのギュスターヴ・モロー、ヤン・ロイケン(正しくはなんと読むのだろう?)、
オディロン・ルドンらの絵画作品についての叙述は前半での大きなハイライトになってい
ます。また第三章でのラテン文学の蘊蓄は日本人にはあり得ない、まさにヨーロッパ的教
養というものを痛感させてくれます。第八章の妖しい花々と毒々しい幻想も印象的です。
第十二章からは私の好きな部分を引用させて頂きます。
「このまことに奇妙な、まことに定義しにくいサディズムなる状態は、実際、無信仰者の
魂においては起こり得ない状態である。(中略)サディズムは何よりもまず、聖の実
行、道徳的反逆、精神的放蕩、完全に観念的でキリスト教的な錯乱の裡にこそ存するの
である。」
純文学と大衆文学、小説とエッセイ、詩と論説といった峻別に囚われない精神の持ち主に
お薦めしたい本です。
夢と現実のあわいを行き来しているうちに、一体どちらが夢でどちらが現実なのか分からなくなってくる、そうした味わいにするすると引き込まれてゆく連作短篇集。そこには、モーツァルトの20番以降の「ピアノ協奏曲」を彷彿させる調べがあり、自由の境地に遊ぶ清澄な美しさに魅了されました。 六十七歳というのに童子のように天真爛漫な御子(みこ)こと高丘親王が、数人の従者とともに天竺へと向かう道中の、不可思議な話を記したファンタジー。「そうれ、天竺まで飛んでゆけ。」の言葉をモチーフにして、夢のエッセンスのような幻想譚が展開されていくのですね。久しぶりに再読したのですが、これはやっぱり素敵な幻想綺譚だなあと酔わされましたね。 さらに、妖しい感じが、ドラコニア王国の主・澁澤龍彦の面目躍如たるもの。江戸時代の絵師・伊藤若冲(じゃくちゅう)の、鳳凰を描いた「老松白鳳図」という絵に漂うエキゾチックな妖艶美と気脈通じる味わいに、うっとりとさせられました。 澁澤龍彦の小説では、『唐草物語』『ねむり姫』『うつろ舟』もそれぞれに珠玉の短篇集だけれど、ただ一冊だけとなれば、この遺作を選びます。はるか天の蒼穹へと融け入るが如き、七つの夢幻譚の香り高き調べ。絶品、と言うしかありません。
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