ウェブ試聴してみると大物演歌歌手を起用しながらアレンジが原曲と大差ないためにロックやポップスがただの歌謡曲になった感があります。
求めるものは名曲たちをどのように演歌に仕立てあげられるか、歌い手やJ-POPの幅の広さを期待していました。
何か歌い手の持ち味であるコブシが足りないのです。
昴はかなり演歌でしたが、もともと歌謡曲。演歌の素質を持った曲です。
やっぱり演歌歌手は演歌が最高です。
今度出すならばコブシ、バックミュージックもド演歌直球にアレンジされた曲を希望します。
開高健の男臭い文体に、私ははるか昔「日本三文オペラ」で初めて接し、しばらくはこれに魅了されて、当時入手できた作品の大半を読んだ。しかし、彼が亡くなった頃にはその熱も冷め、その独特の表現法に幾分辟易してしまっていたから、この作品には結局20数年の間、取り組む機会を失っていたことになる。とくにこれは、最初に世に出たのが豪華本としてであったから、当時金のない学生だった私には手が届かず、その後はたまたま懐に余裕があっても本が品切れしていたり、あっても心ない人の手でぼろぼろになっていたりして、そのうち「これだけは文庫では買わない」という決意も失せ、結局のところ今頃になって、不本意ながら文庫のしかも古書として入手することとなった。 つまり、あくまでこの作品は豪本で入手することをお勧めするのである。美しい写真の迫力は文庫本でもかなりの程度伝わるけれど、やはりこの場合、アマゾンである。大きくなければならない。 開高健の文章は、久々に読んで、相変わらずのアクの強さを味わわされたが、さすがに見事なものである。男の文章。汗くさい文章。しかし名文である。秘境・大アマゾンの紀行文としても長く歴史に残るだろうし、そのアマゾンさえもが人間の手で蹂躙されつつある時代に対する、彼の静かな悲しみが伝わってくる(本書の旅は1977年。一体今はどうなっているのだろう?)。私は日本でもよく言われるところの「都会人の手前勝手な自然信仰」という反論には与しない。人間が大地の神聖を奪っていいなどと、思い上がるのは大間違いである(その癖、たとえば人工授精などという瑣末なことには目くじら立てる。だって「金儲け」にならないから)。開高健は決して声高にはならない。全編を流れるかすかな哀調は、失われゆく大自然に対する彼の惜別の思いであるだろう。
簡単明瞭コンパクト綺麗だし
勉強は全くしていなかったけれど
おまけに高校でも日本史しか取っていないし
でも 歴史って中高、大して変わらないような??
楽しいのが1番
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