どこにいってもよそ者だと感じてしまうが故、中途半端に適応するより、徹底して不適応者となることを選ぶ。作者のスタート地点は、強烈な「否定」の感情である。それをどこまでもひとりでやり遂げようとする。その姿勢にまず惹きつけられた。
浮浪者寸前まで自らを突き落とし、社会の底辺に蠢く人々の怨念を文学にまで昇華させる。言葉を生むということの過酷さを身を持って示し、その言葉は人を感動させ同時に叩きのめす。 道徳や正義というもののをあっけなく一刀両断し、 表層的な楽観主義を拒絶し、徹底的に絶望することでしか掴み得ない僅かな救いを這いずりながら探ろうとする。 生きるということに対しこれほどまでに真摯になってしまうと、その先にあるのはこのような苦悩であり、 そうであるからこそ、その傷跡である言葉は、誰の言葉も拒絶する者の心に届く力を持つ。
文庫表紙となっている蓮の花は、泥の中でこそ咲くことができる。 作者もまた、泥にまみれることでしか生きられぬ業を背負うことで、類稀なる美を垣間見させてくれる。 書くということの悪を自覚した上で、書くことの本質を突き付けてくる。
最後まで陰鬱な暗雲を感じさせるが、その根底に流れるものは、仏教的無常観であり、宗教的救いを求めてうろたえる一匹の虫けらであることを自覚した男のしぶとさである。
生きることにも死ぬことにも意味も救いもない、だからこそ書かざるを得ない、痛々しくも生々しいリアリティを感じる。
寺島しのぶを観たくて観たくて・・観てしまいました。人間の生の根源ともいえる性を極限の状態で扱っていながらグロテスクにならならないのは、寺島しのぶの持つ透明さなのでしょうか?主人公の住む安アパートの隣で客を取る女の山の手線数え唄は、宮尾登美子原作「夜汽車」の主人公が言った「レールの上を走る夜汽車の音」と私の中で悲しくも重なりました。愛のないセックスは心にも体にも潜在意識の中での拒否反応となって現れるものなんですね。
生きるのに精一杯の状態の中では、どこでどうやって理屈を捏ね回してみても臓物を串に刺すという行為の連続が現実であり、その中でもがき苦しみ、それでも抜け出せない虚無の世界が心中という夢を見させるのでしょうか?原作をぜひ読んでみたいです。
車谷長吉は「私小説作家」だ。それもかなり精度の高い内容だ。ある日「私小説の放棄」を宣言した。がっかりした。その後の作品は良くない。「私小説」は他人の存在を傷つけるものであり、そんなことは当たり前のことだ。車谷の私小説放棄が、その辺に因があるとすれば、「良心の呵責」かも知れないが、なんともバカバカしいことだ。この全集に収められた、初期の「私小説」に接する時、ある種の寂しさを覚えてならない。
私は原作は読まず映画だけ観たくちなんですが、映画の内容以上にまず音楽に引き込まれました。テーマ曲がとにかく素晴らしい。映画の本質をよく理解されて作曲されていると思います。またギターの内橋和久さんの小曲なども秀逸です。
映画自体は非常に胸に迫る、感想を簡単に述べれないもので何度か観てから何れレビュー出来たらと思っています。
かつて会社勤めをしていた「私」は、数奇な運命か、はたまた故意によるものなのか、身持ちを崩し、来る日も来る日も臓物をさばき串に刺し続ける孤独な日々を送る。ある日、向かいに住む不思議な魅力を持つ女「アヤちゃん」と出会い、ひょんなことから彼女と死出の旅路、赤目四十八瀧を登ることになる。 「見たら、あかんッ」作中、小学校一年生くらいの男の子が、土管の中を覗き込もうとする主人公に発する台詞である。また、この言葉は私の、「赤目四十八瀧心中未遂」に対する見解に他ならない。作中の言葉を引用するならば、この小説は、人の「底冷え」を描いたものであり「無能者(ならずもの)」の“相当にちょっとした”話である。もっと言えば「『私』が私であること」-すなわち、人の業-について描かれた作品である。ぬるいお話に浸りきった生半可な心構えでは、小説の中を生きる彼ら「働く奴(ど)」から拒絶されてしまう。 粘着質な息遣い、血と脂の匂い、足元に落ちた白いワンピース……どん底の生の営みと対峙出来た者にのみ分かり得る情念を書き切った傑作。第百十九回直木賞受賞作。
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