先日、愛媛県 馬瀬(ばせ)山頂公園にある「紫電改展示館」に行ってきた。
私自身は5回目の訪問。
今回は友人を連れての訪問だった。
32年前に目の前の宇和海の海中から引き揚げられた紫電改。
当時の姿をなるだけ残したいとの希望なのか、
戦中の製造元、今は「新明和」でピカピカにレストアするのではなくて、弾痕、曲がったプロペラなど
「傷跡」を残したレストレーションが施されている。
世界に数機しか現存しておらず、
戦後接収された程度のいい機体はフロリダの海軍博物館、ワシントンDCのスミソニアン博物館には
新品のような機体が展示中である。
しかしながら、当時の搭乗員の家族への手紙やら引き上げ時のVTRなど貴重な資料はここにしかない。
当ビデオは引き上げ前後の事情を中心に据え、
当時の関係者のインタビューを交えて、「紫電改」の姿を浮かび上がらした
貴重なDVDであると思う。
生き残りの隊員諸氏、交戦したグラマンF6Fパイロット、墜落し着水を目撃した主婦やらの生々しい証言が興味深い。
DVDの画質は全体に色が薄く、あまり良くないが、十分、鑑賞に耐えうる。
何と言っても「343航空隊」の発案者であり、
基地総司令官の「司令」であった故「源田實(げんだみのる)」元海軍准将が
じきじきにインタビュアーに答えている姿に驚かされる。
栃林氏の新作ということで即購入しました。 背景の雲の表現まで配慮の行き届いた、素晴らしい作品です。 「日米空母決戦 」は46インチ程度のテレビでは解像度が荒くなり、 画面を小さくして再生していましたが、本作ではほとんど気になりません。
パナマ運河を念入りに破壊し、真珠湾を軍事的に消滅させた日本軍、ただむやみに 戦果を拡大するわけではなく「アメリカがいい加減嫌になって手を引くにはどうすればいいか」を 模索しながらの作戦となります。
今のところは贅沢な戦争をしている気もする護衛艦隊、GFから長門や陸奥が転属していて、 フィリピン沖で米艦隊と殴り合いをやったりします。
戦争なんてものはバカバカしいものですが、だからこそ真面目にやらねばならず、信義も忘れては いけない、作品のテーマもそこにあると思います。あとは笑いを少々。
世界最強であるはずのアメリカが混乱すると、こうもチグハグになるのは実際の歴史でもあった事。 でも混乱が収まって目標が定かになると手を付けられないのも事実。
他のシリーズよりもキャラクター達が魅力的なこの作品、気が付けばあっという間に通巻4冊目。 もちろん続きを待ってる作品もありますが難しいのか。
イラストを見る限り、そんなに「ちっぱい」ではないと思う主人公、でも気にしてるのね。 登場して早々放り投げられ、最後には海に落ちる彼が「デストロイヤー」と呼ばれる日は来るのであろうか・・・。
どうもこの世界、島津の血が濃いようです(笑)
ノイズの多いシートレコードで聞いていたのがクリーンになってよみがえってOKですが… 一番期待していた「サイボーグ009」がドラマの冒頭と重なって、シートの音源なんですね。 それが残念。
それより、「上高田少年合唱団」って何でも歌っていたんですね。 彼らの正体は一体何? アルバムが作れそう。
基本的には「戦争は悲しいことだ」という気持ちを込めながらも「限られた資源で必死に戦った先輩たちの健闘には敬意を表したい」という、高度成長期の日本人の平均的な戦争観、戦死者追悼観を託した映画。ある意味で「古きよき」映画。
テレビが普及しはじめた初期で、まだ劇場映画が娯楽の主流だった時代だから、特撮にも相当お金をかけることができたらしく、CGのない時代にしてはよくできている。また、海上自衛隊ができて間もない時期だったので、太平洋戦争時代とあまり変わらぬ旧式な型の護衛艦や潜水艦があって、それらが実写で出てくる。
が、松林宗恵監督は、戦争映画にかなりフィクションを持ち込んだ人で、「これは史実ではない」という部分は冷静に認識しておいたほうがよい。映画の前半で、昭和19年末〜20年年頭ぐらいの時期にラバウル、硫黄島、フィリピンなどから優秀なパイロットたちが敵の包囲をかいくぐって脱出し、本土に馳せ参じるように描いてあるが、実際にはこういう例はほとんどなく、三四三空に参加したのは、それ以前に本土に召還されていたパイロットたちだったろう。
また、昭和20年4月7日の朝、松山を飛び立った紫電改の一群が戦艦大和を護衛して、大和乗員たちを感動させる場面があるが、これは創作だ。その日、午前中だけ大和上空の護衛についた戦闘機群があったのは事実だが、これは、鹿屋基地の宇垣纒中将が、「大和に上空掩護機を一機もつけないのは、あまりに気の毒だ」として、独断で飛ばせたゼロ戦の一隊だった。しかも、宇垣の命令によってこの護衛は時間限定つきだったので、結局、大和と運命を共にした味方戦闘機は一機もなかった。
松林監督の「こうであってほしかった」という思いが描かれているのだ。
ところで、この映画の「千田参謀」のモデルであることが明らかな源田実は、戦後は潔く隠棲した井上成美大将などとは異なり、自衛隊幹部になり、アメリカ製のジェット戦闘機に乗り、参議院議員にも当選して、ぬけぬけと陽の当たる道を歩んだ。映画の「千田参謀」とはギャップがある。まあ、そんな彼も、昭和の終わった年の8月に松山を訪れていて発病・入院し、15日に松山で死んだのだから、「先に死なせた多くの部下」に呼ばれて、ある意味で「責任を果たした」死にかたをしたのかもしれないが。
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