大河ドラマを見終わったような充足感が得られる。著者の力作!で、並々ならぬ思いが伝わってくる。その上、細かいところまで大量に多彩なものを取り込んでいて、これが絵本ならば、さしずめ安野光雅の『旅の絵本』のように、よく見ると、こんなところにこんな人や物が描かれている、といった感じだった。あくまでフィクションだとは思うが、ジャック・ロンドンが日本とこんなに関わったことが不思議だった。また夏目漱石、森鴎外、田山花袋、頭山満、幸徳秋水なども登場する。それに正露丸も征露丸と書かれ、そういえば日露戦争下で、そういう名前で売り出したんだっけなあ〜といったトリビアも織り交ぜられている。
舞台は著者の出身である和歌山。森宮(しんぐう)と読ませている架空の土地は、恐らく、新宮がモデルなのだろう。主人公は「毒取ル」とあだ名された医師の槇。アメリカでドクトルの学位を得て、カナダで1年経験を積んだのち帰国。その後インドで修業を積んだのち帰国。そこからがいよいよ物語の幕開けとなる。日露戦争前からその後の森宮を中心にストーリーが進んでいく。
タイトルの許されざる者とは、とある恋に落ちた者をさすのだろうけれど、当事者だと2人なので、単数形なのは日本語的意味でなのか、そのうちの片方だけ、本当に1人だけなのか、こういうとき、英語は便利といえば便利だ。
槇には、非常に美しい千春、肺病を患っている建築設計士の勉という親戚がいる。槇がインドに行っている間、千春は何者かに毒殺されかける。その後、槇が帰国してから犯人らしき者が判明し、その後も千春を巡っては、さまざまな男性が思いを寄せ、また身近にいとこだと言う者が現れ、またそこから騒動がわき起こる。
しかし本当の騒動は着々と進められていた。各国のグレート・ゲームや時代の流れで、日本もその時流に乗ろうとしていた。「言葉が、それに対応する現実から遊離し、言葉だけで世界が成り立っているかのように錯覚して、それで人を動かそうとする。アジテーションと狂信的世界のはじまりだった」。そして熊野革命5人団も結成される。
日露戦争が起きると、登場人物それぞれの運命が大きく動き出す。もしあの時、少しでも違っていたら、とも考えられるが、本書では、なるようになるという結果につながっていく。多少、あまりにも多くのことを盛り込みすぎた感があり、散漫な感じがするものの、下巻の後半から、なるようになっていく運命が中心に描かれていくことで、まとまりが出る。(これも予想に違わないため、物足りなく思う人もいるかもしれないが)ただ、和歌山は『紀ノ川』のイメージが強く、『紀ノ川』を読んだ時の感動が大きかったので、これを乗り越えるのは自分の中ではなかなか難しいかもしれない。
老いてなお盛んの感のあるイーストウッドだが、ダーティ・ハリー前後のイメージを大きく覆す作品。もともと西部劇は、日本の時代劇な位置だろう。そのため、哲学的な要素を含めば、あまりおもしろくなくなるのだが、骨太の西部劇でありながら、単純な娯楽作品でもない。重いトーンは、ミリオンダラーベイビーに繋がっていく。
いわゆる戦争の功罪を、この作品から垣間見た。
戦争が起きたおかげで実現した出合い。
学校に通えない子供たちのための、寺を場とした青空学校。
これらは、戦争のプラスの側面だろう。
戦争が起きたおかげで人々の心は、もう二度ともとには戻れなくなる。
点灯屋、ねじ巻き屋、左官、車夫、……自分はその道のプロフェッショナルだ、という自分の職業に対する誇りを持ち、そして、困った人に対する同情・憐憫の情を抱き、困った人を助けたい、という美しい心、美徳をそなえた人々。彼らを戦争が直接的に、また、間接的に変えてしまう。
作中、「戦争を扇動するのは悪徳の人で、実際に戦うのは美徳の人だ」という言葉が引用されているが、あらゆる悪を扇動するのは悪徳の人で、実際に行動するのは美徳の人、なのかもしれない。可愛そうだ、力になってあげたい、役に立ちたい、そういう、美しい心をそなえているがゆえに、知らずしらずのうちに、人々は悪の道に足を踏み入れてしまう。背負う必要のなかったはずの罪、抱く必要のなかった秘密を代償にして。
繰り返し場を変え、形を変えて登場するテント。人間のように体の中に骨があるのではなく、体の外に骨がある、という構造。いざというときには、飛べる。カナブンのように。
飛べる、となると、軽そうだ。軽さ、かるみ、というのは、この小説が有している特徴かもしれない。
上林が、「小雪」という騾馬に乗り、安否が絶望視される馬渕を探しに行く、シリアスなシーン。このシリアスな局面での滑稽、郷愁をまじえた描写は、重さ、深刻さからするりと身をかわす、かるさ、かるみが漂う。
――人形の動作は、はじめはぎごちなくみえていても、太夫の語りと三味線の音色が作り出すリズムによって、生命が吹き込まれ、型にのっとって動いているにもかかわらず、ある種の自在感を獲得しはじめる。
「人形」を〈登場人物〉、「太夫の語り」を〈語り手の語り〉、「三味線の音色」を〈登場人物の発話〉に置き換えると、これは、あるいは作者によるこの小説の評言ともなりうるかもしれない。
上巻冒頭で登場した「二重の虹」、「ふたつの虹」のイメージは、たとえば、こんなふうに繰り返される。
(前略)森宮の時間が、以前の速さで流れはじめたかのようにみえた。しかし、じつはもうひとつの新しい時間軸がその下に、あるいは傍に加わって、絶えず旧来の時間を衝き上げ、合流し、渦をつくり、呑み込もうとしていた。
そもそも虹は、「古くは竜の一種と考え、雄(内側の色の濃い主虹)を虹、雌(外側の色の濃い副虹)をゲイ(※)と呼んだ」(『福武漢和辞典』より)という。「呑み込」む、というと、竜のような生き物も連想しなくもない。
「高速で移動する物体の中では、時間がゆっくり進む」。時間がゆっくり進めば、移動する物体は、速く進む? 低速で移動する物体の中では、時間が速く進む? 小説が一つの乗り物だとしたら? 小説が高速で移動すれば、読者に流れる時間はゆっくり進む? 小説が低速で移動すれば、読者に流れる時間は速く進む? ……わからない。
上巻で千春が見た不思議な夢は、下巻において結末を見る。どのような結末か? それは、読んでのお楽しみ。
辻原氏は、「ジャスミン」の中で、死者は数えられない、と書いた。ひとりの人間の死は、数字に置き換えられない。ひとはひとりひとり違う存在だから。「許されざる者」、というタイトルにも、そういうニュアンスが含まれている気がする。
結局、「語り手」としての「私」とは、いったい、誰だったのか、謎のまま終わった。あるいは、彼は、天狗の面をかぶった謎の男だったのだろうか?
※「ゲイ」は、「虫」へんに右側が「兒」。文字化けしたため、カタカナとした。
画質についてのコメントです。最近は特典付きでリニューアル発売される商品が増えていますが、本編画質については旧盤のまま、というものもたまに見受けられがっかりすることがありますが、これに関してはその心配はありません。旧盤に比べて、格段に画質が向上しています。ハイビジョンかと見まがうほどの驚くべき精細な高画質で、大画面再生に耐えうるソフトです。こういう高画質ソフトは本当に所有する喜びが沸きます。
相変わらず切れ味鋭い批評を味わえるのですが、後半部分の「筆刀直評 日記」のコーナーで興味深い一文を発見。このコーナーは自身の日記と 読んだ本の短い感想を12ヶ月分載せたものです。 ■西村京太郎『女流作家』(朝日文庫) いささか薄味。モデルの山村美沙については、 もっとドロドロした話を聞いている。 これでは何を言いたいか分からないと思います。著者もややセーブして 書いたのでしょう。昔少しだけ報道された、山村美沙が自宅で縄で縛ら れた状態で娘の山村紅葉によって発見された騒ぎを思い出して頂けれ ば、誰が縛ったかある程度想像がつくのではないでしょうか。
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