福島原発事故に関して公開された東電テレビ会議のビデオでは、菅総理が発言した部分の音声が隠されていました。その内容は菅総理に伺えば簡単に判明するのに、マスコミは単に隠していると非難するだけなのをとても変だなと感じていました。 この著書には、その時の菅総理の発言内容が記載されています。その要旨は「2号機を放棄すると1号機から6号機迄近づけなくなり、何か月後にはすべての原発の核廃棄物が崩壊し、放射能を発することになる。命を懸けても抑え込まないと、日本がつぶれるかもしれない。原発担当者の撤退はあり得ない。」でした。 菅総理は、当初から福島の原発が暴走したら東京を含めた大規模の避難が起きることを想定されていたそうです。この想定の妥当性は事故発生の2週間後に原子力委員会の近藤委員長が提出した文書「4基の原発壊滅時の強制移転区域は半径170km、希望者の移転を認める区域は東京都を含む半径250kmに及ぶ可能性がある。」で裏付けられました。避難者5000万人を意味するそうです。 この菅総理の発言によって、「まさに日本が沈没する事態になっていたこと」が露わになり、今後原発が一切稼働できなくなることを恐れて東電は隠し、原子力村の意向を汲んで(?)マスコミも報道しなかった、また原子力委員会の文書もあまり表面化させずに隠したのではないか、との疑いを強く持ちました。 原発事故は、幾つかのまさに神風的な幸運があって 全滅を免れたとのことについても、マスコミは軽くあしらって済ませています。 これらのことから、本著書は各種の事故調査委員会の調査結果と併せて、国民が誤りなく「原発存続問題」および「報道の実態」を理解する際のベースとなる 必須の図書だと思います。 福山哲朗元官房副長官の著書(原発危機 官邸からの証言)には、マスコミが誤報した事例などを随所に記載しています。マスコミ各社は頬かむりすることなく、これら著書の内容を詳しく検証し、見解を公表すべきだと 併せて思いました。大問題として扱ったips誤報問題のように。
本書は序章、それに長い第1章と短い第2、第3章からなっていて、第1章の「回想」は副題の「深淵をのぞいた日々」が示すように、福島原発事故の日々が時系列を追って回想される。それはこれまでにも目にした第三者による多くのコメントに相応しながら最大の当事者として事件に対処した首相の視点を明らかにしている。本書のこの章を読めば、原発の安全対策についてどれだけの無知が罷り通っていたかを思い知らされる。そして単なる「パフォーマンス」だとして幾多の批判を浴びたヘリコプターによる首相の現地視察が、夾雑物のない現場とのコミュニケーションを確立し、その後の施策に十分に生かされた「パフォーマンス」であったことを知ることができる。 事故発生後まもなく、諸外国の大使館は自国民への避難勧告を出し、自らも東京を脱出し始めていた。アメリカは原発の50マイル(80キロ)圏からの退避を自国民に指示している。来日を予定していた多くの音楽家の公演もキャンセルされた。このような国際的な動きを過剰反応ということはできない。なぜなら、首相の見るところでは、この事故で日本が壊滅を免れたのは「いくつかの幸運が重なった結果」で、その一つの理由は2号機のサプレッション・チェンバーの圧力が4号機の爆発とほぼ同時に、原因不明のまま急低下して格納容器そのものの爆発が回避されたことにあった。 福島原発の危機は、当面の山を乗り越えたとはいえ、マスメディアの視線の背後では依然として深刻な状態が続いている。その意味で、本書でより注目すべきなのは新しく生まれた課題を論じた第2章「脱原発と退陣」、第3章「脱原発での政治と市民」である。3・11以前には原発依存を許容する立場を取っていた著者は今回の原発事故を経て完全な脱原発論者へと変わっていた。事故に対処する恐怖の最中に原子力委員会が作成し、マスコミによって「最悪のシナリオ」と名付けられたシミュレーションは半径250キロにわたり約5,000万人の避難を数十年にわたって求めていた。そのようなリスクは発生確率がたとえ100年に一度、あるいは1,000年に一度でも取ることはできないという。 事故が起こった当初から菅首相への個人攻撃は際立っていた。ところが首相自身は「5月6日に浜岡原発を停止させ、私が脱原発の姿勢をはっきりさせ始めた頃から、私に対する攻撃が激しくなってきた」という。そこには脱原発へ向かう世論を前にした「原子力ムラ」の危機感がある。この巨大な既得権益集団について著者は次のようにいう。「現在、原子力ムラは、今回の事故に対する深刻な反省もないままに、原子力行政の実権をさらに握り続けようとしている。戦前の軍部にも似た原子力ムラの組織的な構造、社会心理的な構造を徹底的に解明して、解体することが、原子力行政の抜本改革の第一歩だと考えている。」
なかなか面白い小説だった。 見事な舞台設定と場面切替え。 読みやすく、視覚に訴える描写。 わずか8駅しかない阪急電鉄今津線。 ひと駅ごとにニアミスを重ねながら、巧みに主役が交替してゆく。
まずは、往路。 宝塚から西宮北口行き。 ちょっとしたきっかけの男女の出会い。 冴えない友人に婚約者を寝獲られた復讐に燃える美女。 小さい孫を連れている夫に先立たれた老婦人。 乱暴な男に必死に連れ添う女子学生。 ちょっと背伸びしている騒がしい女子高校生たち。 彼女いない歴イコール年齢と彼氏いない歴イコール年齢の2人。
そして折り返し。 しかし、時は流れて半年後。 そしてまた、ひと駅ごとに主役達が切り替わる。 ブランドもののカバンを持つ騒がしいオバサン軍団の失礼な席取り合戦を皮切りに、 往路で登場した人たちのその後のドラマが次々展開する。
ドレス。途中下車。燕。携帯電話。ランドセル。ミニュチュア・ダックスフンド。日本酒。 恋。嫉妬。喜び。強がり。寂しさ。涙。そして笑顔。 それぞれの物語が、沿線独自の雰囲気に包まれて、 巧みにつながってひとつの世界が形成される。 女流作家らしい細やかな心理描写。 最初の女性の名前が復路の宝塚南口まで伏せられていたり、 ちょっとした工夫もいくつか。
もちろん、これはあくまでお話。 こんな都合の良い出会いばかりありえないだろうなんて、野暮なことは言いっこなし。 阪急今津線に幸あれ。
|