直木賞作家にして、元・古本屋店主という出久根さんならではの快著。 「本邦初の、読んで損はない、どころか読めば儲る実益作家論」という「手前味噌」(あとがき)はウソではない。 文学作品であると同時に、市場に販売される商品であるという本の特性。また古本独自の価値体系についてよく理解できる。行間に出久根氏の本への愛情がにじみ出て気持よい。 山本周五郎という筆名がウッカリミスでついてしまった話、彼を世に出した雑誌の編集長が山手樹一郎だとか、江戸川乱歩「陰獣」を掲載させた雑誌の編集長が横溝正史だったなどの挿話も多彩で興味を呼ぶ。 古本の値段は珍しさの他に、帯つき、カバーつき、函つき、汚れ具合などに左右されることも、新聞の連載小説切抜き集が商品価値を持つことも、本書を読めば分る。 取上げられた作家は漱石、鴎外、司馬遼太郎から寺山修司まで物故者ばかりだが(遠藤周作のないのが残念)、現存作家の本を将来高く売りたいならば、カバーの保存に気を付けることだと納得できる。
幼い頃、見た映画「二十四の瞳」の大石先生を演じた高峰秀子の凛とした美しさに憧れたものであった。その後、読んだ自伝『わたしの渡世日記』(高峰秀子著、文春文庫、上・下巻)では、その歯切れのよい達意の文章に驚いた。ところが、私は高峰の極一部分しか知らなかったのだ。『高峰秀子の流儀』(斎藤明美著、新潮社)を繙いて、このことを思い知らされたのである。
高峰秀子の生き方の何がそんなに凄いのか。「天才子役」から「大女優」として55歳で引退するまでの50年間に300本を超える映画に主演し、人気を保ち続けたことが凄いのか。小学校に通算しても1カ月足らずしか通えなかったのに、見事な文章を紡ぎ出すことが凄いのか。十数年に亘り高峰と夫・松山善三に身近に接してきた著者が、敬愛する高峰の驚嘆すべき生き方を丸ごと、この本の中で開示している。
高峰秀子は「動じない」――著者の質問に「私は考えても仕方のないことは考えない。自分の中で握りつぶす」と答えている。だから、高峰は何事に対しても平常心でいられる。どんな局面においても冷静で適切な判断ができるのだ。「絶対に女優はイヤ。深い穴の底でじっとしていたい」というのが高峰の願いだというのだから、驚かされる。
「求めない」――今や、一歩も外に出ず、誰にも会わず、インタヴューや執筆の依頼も頑として受けず、三度の食事の支度以外はひたすらベッドで本を読む日々。これが85歳の高峰の現在の生活だという。華やかな映画界で長く過ごしながら、その魔力に幻惑されなかった。多くの女優が後生大事にする自分の業績に対して、いとも簡単に「興味ない」と答えている。高峰にとって重要なことは、映画賞をもらうことでも、目の色を変えて金を稼ぐことでも、日本映画史上に名を残すことでもなく、ただ、大切な夫と日々の暮らしを自分流に快適に過ごすことなのだ。
「期待しない」――著者は、「高峰はつくづくと不思議な人」と述べている。大女優なのに、虚栄、高慢、自己顕示、自惚れ、これら女優の「職業的必要悪」を全く持っていないからである。著者は、高峰が愚痴の類いを口にしたのを、ただの一度も聞いたことがないと言う。それは、高峰には端(はな)から愚痴の種になる「期待」そのものが存在しないからだ。
「迷わない」――迷わない人、決断力のある人は、自分の中に揺るぎない己の規範を持っている人だ。5歳の時から大人の中に交じって働いてきた、言わば「子供時代を奪われた」一人の少女が、その目で、じっと人間を見、物事の有様を見つめ続けながら、人にとって本当にすべきことは何か、してはならないことは何か、何が美しくて何が醜いのか、つぶさに見て、学び取った結果だ、と著者は考えている。
「変わらない」――高峰は、変わらない。決して翻意しない。前言を翻すこともない。不動の価値観を持っている。
結婚した時、高峰は大スターで、松山は1歳下の名もなく貧しい助監督であった。高峰のこの選択も素晴らしいが、その後、半世紀以上、今日まで、価値観を共有し、尊敬し合って仲良く暮らしてきたことがもっと素晴らしいと思う。
写真集『高峰秀子――高峰秀子自薦十三作/高峰秀子が語る自作解説』(原田雅昭編集・高峰秀子特別協力・斎藤明美監修、キネマ旬報社)では、各映画の高峰秀子の美しさをじっくりと堪能することができる。彼女自身が語る出演作の裏話も興味深い。
有識者のべ37名が、”本の未来”について語ったエッセイ集。書店・古書店・図書館・取次・装丁・編集、そして練達の書き手・読み手による議論はどれも読み応えがある。紙の本への愛情を説くもの、電子書籍の欠落を語るもの、読書の本質は変わらないと主張するもの、さまざまな視点からの意見は、実にバラエティに富む。
ただ間違いないのは、電子化への流れは抗えないということと、紙か電子かという二項対立でものを考える必要はないということだ。この二項対立の構造は、委託制、再販制に基づく旧来型のプラットフォームか、Amazon、Appleなどのプラットフォームかという、ビジネスモデルの構造に根差しているところが大きく、読書そのものを二項対立で捉える必要は全くない。
本書によって得た気づきは、昨今の電子書籍の議論によって、欠落している視点が二点あるのではないかということだ。一つは、書き手の視点による議論が少ないということ、もう一つは、ブログをはじめとするネットメディアからの視点で考える議論が少ないということだ。
◆電子書籍の議論で欠けている視点
・編集の縦軸と横軸の広がり
本を送り届ける側にとって、紙の本ありきで物事を考える必要がないというのは、非常にポテンシャルを大きくしてくれると思う。土台から考えることによる負荷は大きくなるかもしれないが、選択肢が増えることによる編集の横軸の広がりは表現の多様性を引き出すことになるだろう。また、送り手側でのパッケージをどこまで行い、読者の参加感をどのようにデザインするかという、編集の縦軸の広がりも、新しい世界観をもたらしてくれる。
・溶けていく境界線
電子書籍を、紙の本とネット・コンテンツの中間に位置付けて考えてみる。電子書籍の登場による影響は、紙の本とは反対サイドにいるネット・コンテンツも同程度受けることであろう。”体系化されたストック情報”のポジションに電子書籍が位置どることになると、隣接するネットメディア、ブログメディアはよりリアルタイム感のあるフロー情報に特化していき、TwitterやFacebookとの境界線があいまいになっていくかもしれない。また、短文の電子書籍、長文の有料メルマガなど定義をあいまいにする表現物の登場も予想される。そしてその誰にとっても、電子書籍の登場は、出版することへの敷居を今までより格段に低いものにしてくれる。
今後想定される、本の送り手の増加というものを考慮すると、送り手側の視点こそが、今後の電子書籍の命運を握るのではないかと思う。
日本人たるものの、美風とは何たるや。
貧窮する野口英世に対し、名前を出すことなく身を削って援助し続けた3人の「隠匿」
農政家二宮尊徳の身を粉にして働き続ける「篤志」「分限」
中谷宇吉郎と「篤学」樋口一葉の「清貧」
修身や道徳でなく、筆者はこれらを「読書」で知った。
|