パリに赴くくだりで、思わず目頭を押さえた。大人の山本とや んちゃな軍令部。そういう表現が適切かもしれない。暗い話だとは思うが、今人生に つまづきを覚えている人に是非読んでもらいたい。
米内という人は作中で何度も語られるが、寡黙でその心中を読み取りにくい人物であったという。こういう人を小説の題材として描くにはどうしても周囲で接した人々の証言が重要な鍵となってくる。著者はそれが為に多くの米内を知る人の証言・伝聞を調べ上げ、彼の事績をつむいでゆく手法をとった。
前半中盤までそのエピソードや人の証言、文献の引用が多いため、読むに少し辟易する部分もある。しかし、後半、米内が小磯国昭内閣海相として政界に復帰、終戦に尽力する過程から物語に哀愁が帯び始める。米内のよい部分もマイナスとなるエピソードも、総合的に書いて彼の人となりを浮かび上がらせるという構成だが、最終的には成功しているといえる。阿川氏の小説手法は、題材とする人間の周囲を克明に描く事で、主人公の確かな手触り、実像を浮かび上がらせようとするものなのである。
日本最後の海軍大臣として、血圧250を越える身体で終戦の為に闘った米内。寡黙で断片的な発言が多かっただけに、その評価は分かれるところである。作中でもその評価の二分した様が何度も描かれる。しかし米内自身の言葉に表れずとも、その意志の明確なる様を、周囲の人々の動きや言葉によってこの小説は強く描きあげている。小説の題材になりにくい無口な主人公を「無私」ということを鍵に巧みに描きあげた本書は名著である。
大勢が誤った方向に進んでゆくとき、いかに己の考えを偏らせないで一定に貫くという事が難しいか、よくよく思い馳せてみれば米内のすさまじさが解る気がする。気力の充実した若いうちに読むことをおすすめしたい本である。
小生、訪問販売(飛び込み営業)時代の出来事です。
伺った家のご主人はたいへん寡黙な方でした。壁に掛かっていた飾り物から、その方が海軍の元ラッパ手であることに気付き、当時、丁度読んでいた『井上成美』についての感動を素直にお伝えしたところ、当方を信頼に値する者と見做してくださったのでしょうか、数十万円した商品を、驚くほど簡単に予約してくださいました。詳しくお話しをお聞きすることはできませんでしたが、その方を通して、同時代を生きた人々の井上成美に対する深い畏敬の思いを間接的に知ることのできる経験でした。
論理的であることや自己主張する個人を煙たがる風のある日本の社会(『世間』)において、高い見識を保ち、10年先20年先を見据え、疎まれ、誤解され、場合によっては社会(『世間』)から排除されるのも覚悟の上で、左顧右眄することなく生涯を送るなどというのはたいへん難しいところがあると思いますが、まさに井上成美はそのように生きました。退き際も立派です。
小生は、井上成美の生涯とイエス・キリストのそれとを、いつの間にか重ね合わせて読んでいましたが、「終章」井上成美の死後、残された蔵書について触れたくだりで、「井上の枕頭の書だったろうと思われるものに聖書と賛美歌があった。」「何故バイブル全巻をこれほど丹念に繰返し読んでいたのか、不思議であった。」という記述に膝を打つ思いをいたしました。小生思うに井上の生き方はキリストのそれと相通じます。井上が聖書に共感を覚えるのは無理なかろうと思いました。
当該書籍は、気骨ある明治男を扱った小生の愛読する伝記の一つです。
本書を含めた、阿川弘之の海軍提督三部作を読むと、もう他の伝記作品は読めないのではないかと思われる程、素晴らしい伝記文学である。 伝記というとどうしても偉人崇拝的な筆致になる嫌いがあるが、本書ではそれは見受けられない。例えば、山本五十六が大本営参謀辻政信により、陸軍の厳しい戦況を訴えられ、海軍の応援を約束する行で、「山本はハラハラと涙をこぼし」とある。普通なら、「山本はそれほど情に厚い将軍であった」となるだろうが、本書では、「これは本当かどうかわからない」と続くのである。 漫然と読んでいてはなんだかよくわからないのも、本書の特徴に一つであろう。つまり、読者に考える余地を与えてくれているのである。しっかり頭を働かせながら、深く読めば、山本五十六という「人間」を見つめ、歴史的にみてかれに良かった点、悪かった点を冷静に見つめることとなる。そして結局、「でもやはり、偉大は人物であった」ということになるのではなかろうか。これは、「海軍提督三部作」に共通して言える事である。 生きるとは何か、戦とは何か、組織とは何か、歴史的、大局的認識に基づいた判断とは何か・・・。考えずには居れない作品である。
私が子供の頃読んだ絵本を偶然見つけて、懐かしさのあまり自分の子供にも購入したのですが、むかしかかれた本でも時代の違和感無くとても面白い絵本ですよ。特に電車ずきの息子は何度もページをめくっては楽しそうにしています。やえもんが語尾に「しゃー」をつけて話すので私たち夫婦も時々やえもん語が移ってしまうほどです。今ではあまり見られなくなった機関車ですが絵本の中ではちゃんと生き生きと描かれていますよ。
|